昭和43年8月13日 朝の御理解
御理解 第74節
「かわいいと思う心が神心じゃ。」
かわいいと思う心が神心じゃと、この、かわい、ここで、かわいいと、おー、しとっておられるのは、愛しいというようなものとは、全然、性質が違うようです。ね。愛という字を書いて愛しいといいますね。ですから、あの、子供がかわいいというようなのは、ここでは言う、最後に神心じゃと言うておられるのは、神心じゃない、ね。あれは、親の情なんです。神心ではない。ここで、かわいいと思う心はこの神心と通わなければならない。いや、神心と、同一の、ここは意味を持つものなんですね。今度、私あの、御本部参拝をさせて頂きまして、えー、三代金光様の五年祭に、偲び草が出ておりました。各教会に、いー、偲び草としていただきまして、( ? )、金光様のお書き下げでした。信心の稽古と書いてある。ね。何ともかんともいえん字ですね。いわゆる、有難いというか、夕べも、これをもう、じーっと眺めさせて頂いてから、もうほんとに、あの御徳、御徳で書かれておる字の何ともすばらしい事じゃろか、もう、形じゃないんですよね。どんなに素晴らしゅう、あの、形が書いてあっても、ほんならあの、なんていうですか、こういう色紙やら、その軸やらに、ならない字があるんですよ。けれども、字の形は、ともかくとしても、それが、まあ見て素晴らしいものがある。まあ、金光様の字はもう、拝んで有難いという字なんですね。拝める字なんです。いわゆる、有難いという訳ですね。ここにあの、御神米という包装紙があるでしょう。あれは、三代金光様のお書き下げですけども、あれを、あの、上野さんが、謄写版ですかあれはね。石版刷りですから、持って行かれたところが、石版刷りの職人さんがね、あのー、有難いちいう字は、こげな字が有難い字じゃろち言うちから、そん、言うたち言うわけですよ。確かにあの、有難いという字なんですね。それがいわゆる、その、私思うのですけれども、かわいいと思う心が神心になっておるという事だと、こう思うですね。もう、字の中にそういう神心と、いわゆる、そういう意味での愛情と言うのがあふれておる。まあ、いうならば、人を助けねばやまんというものが現れておる、字の中に。ね。ですから、この信心の稽古と、まあいうなら、小学校の一年生が書いたような感じの字を、拝ましてもらいよると、何時までも何時までもその、月の有難さというかね、えー、何かこちらの心が清められていくようなものを、その中から感じれれると言う事ですよね。全然、信心のしの字もない、その、石版屋さんの職人さんが、有難いという字は、こういう字じゃろうと。と言うて、信心のないものにでも、そういうものを与えられると言う事なんですね。そこで、ここでその、んー、信心の稽古と言う事は、ま、どういう事だろう。何でもその、その事を、どういう事だろうと思うたら、なかなか難しいんですね。信心とは、と、こう真正面から、その、おー、ま、信心とはどういう事かと、信心とは何ぞやと、問われるとですね、なかなかちょっと返事が出来ません。真心とは、説明に、なかなか、真心とは真心くさい、ね。信心の稽古とは信心の稽古くさい、と言わにゃおられない、そのくらいな意味にしか結論は出来ない感じがしますけれども、ここには、信心の稽古に来るところ、ね。お広前は、信心の稽古場と言うておられるが、果たしてお互いが、ここを稽古場と思うて通うて来ておるだろうか。ね。本当に、信心の稽古場として通うて来なければ、もう、信心の稽古という事が、どういう事かということが分らんのです。ね。参りゃおかげを頂くと、ね。それが、十年、二十年続いても、信心の稽古には、何にもならんのです。おかげを頂く稽古にはなります。ね。いろいろやっぱ、おかげを頂くこつを、お参りしているうちに覚えていくです。ね。信心の、金光様は信心の稽古と言うておられます。ね。そして、私は、今朝から、その事を思わせて頂きながら、この、教典を開かせていただきましたら、かわいいと思う心が神心じゃという、七十四節を頂きます。ですからね、お互いの心の中にある、神心とでも申しましょうかね。また、その神心を求める、自分の心から、神心を、いつも絶えず、出していけれると言う事は、人間の心から生まれるのが人間心なら、やはり、神様の心から生まれるのが神心なんだね、言うなら。ね。だから、人間から、神心は生まれない。ね。そこで、私はまた、あの、教典を開かせていただいたら、六十一節のですね、神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと、信心、えー、話にしておくのぞと。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話していくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのおれいぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うなと。いうなら、大変複雑な御教えですね、御理解です。ですから、信心して、おかげを受けたら、神心となりて、人に丁寧に話をして行くと。ね。信心をして、どういう事になっていかなければならないかというと、神心になる。なら、その神心というのはです、ね。自分が本当におかげを受けたことを、丁寧に人に伝えて、真の信心をさせるのが、神になるのぞと。ね。その神になるのぞというところを目指さなければ、神心は生まれてこないのです。ね。そこで、私共が、あの、非常にあの、普通で言う、親切な人、愛情のこまやかな、愛情の深い人、温かい人。ありますね。だから、そういうものは、ここでは、神心じゃないのですよ。直ぐ涙もろい、同情する、同情っぽいですね、いわゆる。いわゆる、親切好きですね。だから、ここでは、その親切なんかという、その親切好きなんかというのは、これは、もう、おかげのむしろ反対に受けられない心なんです。愛情過多、ね。愛情がその、多すぎるというのなんかは、いかにも良さそうですけれども、これは、おかげの受けられない、相手までもおかげを引きずり落としてしまうものなんです。けども、そういうのが、ああした、神心の強い人じゃと言ったようなことを思うておる場合があるですね。違う、ね。むしろ、あの人は冷たい人じゃと、その、冷たい人じゃと言われるような中にもです、神心があるという事です。それはあの、冷淡というのじゃないですね。冷淡というのと、ここで私が、今日言うその、冷たいという、冷たい心の人だというのとは違う。ね。ここで、かわいいと思う心がです、ね。愛しいというのとは全然、性質が違うのです。表現になっておることを、を、申したと同じことです。そこんところも、四神様は、その教えの中に、ございますですね。憎いかわいいを捨てたらと、こう仰る、ね。おかげを受けられる。憎い、かわいい、ね。惜しい、欲しいを取ったら、御徳が受けられると。四神様のときに、どういう信心さして貰うたら、御神徳が受けられるでしょうかといってお伺いした。そしたらね、四神様は、憎い、かわいいを取れ、おしい、欲しいを取れと仰った。惜しいとか、欲しいとか、なるほど難しいことですね。けども、御神徳を受けていくなら、そこんところを、やっぱ精進しなければいけん。だから、そこんところに精進すると言う事がです、結局、神心を目指さなければ、我が心が神に向こうていくのを目指さなければ、言うならば、おかげを受けたことを、丁寧に人へ伝えていくというような信心して、それを真の信心をさせるのが、神になるのぞと仰るようなところに、焦点を置いてですね、参りますと、自分のなんと冷たい男だろうかと、こう私が思うことがあるんですよ。けれども、それはね、この人が助かることのためのものなんですよ。だから神心です。ね。はー、昔の私だったら、こんな話を聞いたら、それこそもう、ほんとに、一緒に泣いて、一緒にこの人と、んー、ま、同情して、えー、その、一緒にその人が、難儀と言うておる難儀を、に、その、相談をするだろう、相談をするだろうと、こう思うんです。ところが、そげん時は、ほうからかしときゃ良かがの、と、こう言えれるようになったんです、この頃は。ね。
私、それでん一遍失敗したことがあるんですけども、私、北京時代の、えー、大変もう、親戚付き合いのように、心やすうしておった方が、久留米でちょっとした割烹をやっとりました。奥さんが大体、水商売の方で、なかなか気の利いた方でしたが、まだ、椛目の時分にその、ここへ主人がやって見えたんです。もう、夜の御祈念も終わってからでした。それでその、おー、何、どうした事であろうかと思いよったところが、家内が出て行ったと、こういうわけなんです。ね。それこそ私が、北京時代の私であったならもう、一緒になって心配してから、一緒になって、私が探して、そして私が、どこまででも行ってから、連れて帰ってきてやって、よく話してやってまた、その夫婦仲のようなるように、もう私がしなければおられない私であることを知っておるんです。行くところは、唐津にいっとるというわけなんです。唐津より他には行くとこはなか。ね。ですからもう、私が、もう直ぐ、その晩でも唐津に行って、呼び返して来てくれると、こう思うて来たんですよね。ところがもう、私の心の中に神心が、段々強うなっておる時分ですから、ね。○○さん、ほうからかしときなさいと私が言うたんですよ。ね。ちゃんとおかげ頂くがと、ほうからかしときなさいと。そん時まで気が付かなかったんですね。ほっで、まあ向こうも、まあ、手を付くしまがないようにして、あー、その泊まっていけと言ったけれども帰りました。それからもう、半年も、一年もしてからでしょう、私と久保山先生と、おー、久留米の、初代の三橋先生と三人で、久留米の、あの、家探しにいったんですね、久留米の。それで、久留米に知ったとこと言うて、そげん沢山ないから、知ったとこに寄って、そして、そちらでも、えー、こざっぱりとした、小さいその、まあ料亭ですね、割烹やってますから、あれで、昼飯なっとん食べようか、あそこに行ってから。もう、行ったらそれこそ、大歓迎してくれると思うとるもんですから、ところがその、さっき私が申しましたその、○○さん、勿論帰ってきて、女中さんたちと帳場におるんですよ。そりばってん、上がりなさいともいわなければ、お茶も汲まんですもん。それでもまだ気が付かなかったんですね。それから、三人、まあ、もう、ここは家と同じこっじゃけん、上がりなさいち言うてから、三橋先生と、こうやって上に、帳場に上がってから、そして、なーんも出さんもんじゃから、そばなっとんとってくれち私が言うて、それから、そばば、電話ようやくかけてくれました。勿論、そん出すどんが私どん金ば払わんならんとに、ね。そしてから、色々その、おー、話し掛けるけれども、ぶーっとしとるですもん、大体、そんな人じゃないですもん。そしたらです、最後にその、いわゆる、半年前のことを言うわけなんですよね。私が、いわゆる出て行ったときには、あんたがその、もう、ほうからかしとけち言うたげなね、ち、私に言うわけなんです。ははー、ここにあったばいのと思うてですね。確かに私が、ほうからかしとけち言うとる。もう、あんたばっかりは見損のうた。ち言うてから、今度は、夫婦が仲ようなったら、はっは、私はね、その、ほうからかしときゃ、ちゃんとおかげ頂くと言う事は分っとるから、ほうからかしとけと言うとですよ。ね。しかし、そのほうが、結果的にはおかげいただいとる訳ですよ、やはり。ね。私は、そら、あんたいかん、そら私が、ほんなら、唐津にでも行ってから、呼んで来てやるきん、そして必ず私が、説得して、言うて聞かせて、また、夫婦仲よう、そこでさせれば、向こうは良かった訳なんです。ところが、そん、仲ようなってから、大坪さん方へ行ったら、お前は、ほうからかしとけち言うたぞち言うた。それであーた、一時お茶もくまじゃった訳が分ったわけですけれどね。だから、そこんにきですね、あの、人が助かる事の、という事に繋がる冷たいとか、ね。この辺をです、だから、場合によっては、信心のないものから、あの人はなんと冷たい男じゃろうかと言われてもいいのですよ。ね。それをその、私もどっちかというとその、まあその、愛情過多症のほうですからね。どっちかち言うとその、おー、この、ダブりよるぐらいに、そのあるとですよ。それをですね、冷静に抑えるためには、大変な、やっぱ修行が要ったんですよ、私も。ね。ですからその、お互いがですね、あの、冷たいとか、あー、というけれどもその、冷たいという心の中にでも、神心がある。ね。そういう意味合いで、この三代金光様なんかは、ほんとにあの、こう、おー、ほんとに子供でも、ひざの上に這い上がって行きたいごたる、ご様子のときとですね、もう、それこそ、厳しい厳しい、それこそ冷たい表情でですね、あの、おられる時と、お持ちになっておったように思いますですね。あれがほんとの神心。ね。ですから、かわいいと思う心が、神心じゃと仰るが、私共は、そういう神心をですね、目指す、目指すというところ、ね。それが、自分が段々強うなっていくと言う事。ね。だから、愛情過多の人は、それを抑える、ね。冷淡な人は、それをただ、冷たいという、冷たくじっとこう、冷静にその、この人が助かっていく事のための冷静さと、冷たさというものを、いよいよ頂かせてもらえる、おかげを頂かなければならん。勿論、人間心が人間の心から生まれてくるなら、ね。神様ヘ向かう心から生まれてくる心が神心なのです。という事を、この、六十節は教えてるんですよね。六十一節は。神よりも金光大神に、いつまでも尽きぬおかげをと、こういうように、そういうその、おかげを受けてですね。人へ丁寧に話して、しかも、それに真の信心をさせるのが神へのお礼であり、それが神になるのぞと。その辺から、神心が、ほんとの神心が生まれてくる。だから、それまではですね、なかなか、神心というのは、使えないことが分りますよ。ね。そして、自分な、いっぱしの、おー、いわば、神心が強いとこう、うぬぼれておるような人もあるんです。ね。親切好きな人、ね。それを、愛の心と思っているんです。愛の心という心の中には、いうならば、その、ね。冷たいという心と、温かいという心がね、丁度良い具合にね、ある心が神心なんです。だから、場合においてはです、ね。ほうからかしときなさいと言えれる心。ね。ある場合には、それが、ああ、ね。動植物の上にでもです。ね。私があの、榊の木が折れたときに、お神酒をかけてから、御神米貼ってから、包帯してる、よそから見たら、馬鹿んごたると思う。けれども、そういう中に神心がある、あるんじゃないかとこう思うのです。ね。かと思うと、そういう風で、夫婦喧嘩して出て行ったときにです。ほうからかしときなさいと、いかにもその人にとっては、取り付く島もなければ、あー、なんとも冷淡な男じゃろかと思われたかも知れんけれども、決して冷淡じゃない。ほんとに夫婦が立ち行くことのために、私は、ほうからかしとけち言うたのである。そして、実際においては、また、よりをもどして、前よりも仲よう具合ようやっておるという事になる。そういう、そういう心を目指しての信心。ね。信心の稽古とは、ここに、いわば、簡単な言葉で、信心の稽古とお書き下げになっとるがです。ね。信心の稽古とは、どう言う事であろうかと。自分の心の中から生まれてくるところの、かわいいと思う神心、かわいいと思う心が、ね。愛しいと、かわいいというのが、良くこう、使い分けられておる。ね。その、愛しいというのはなくなって、その事を、四神様が仰っておられる。ね。憎い、かわいいと言う心を捨てたらと仰るんです、徳が受けられると仰いますから、確かにですね、ただ、かわいいというだけの心は、愛しいが入っておったんでは、もうおかげさえ受けられない、徳さえ受けられない。徳さえ、徳が受けられない。だから、自分で愛情過多であると思うたら、気が付いたら、自分は親切好きであると思うたら、ね。自分は世話好きであるとこう思うたら、ね。そこんにきを、じっと自分で、抑えられる、そういう稽古こそですね、私は、信心の稽古だと。いや、それも、金光様金光様とこう抑えていく。ね。そこには、ははー、形においては、冷たく見えるけれども、冷たいと言う事の中に、その人を助けなければやまんという心があるわけなんです。ね。だからこう、お互いの心の中にあるその、世話好きとか、親切好きといったようなものが、信心のように思うたら、大間違いですからね。この辺を。よう考えねばいけませんよ。ね。ほんとに助かることのために繋がるものでなければ、これはほんとのことじゃない。ね。
今日は、信心の稽古と言う事が、お互い、毎日こうやって会話して頂いておるが、どこを焦点に通うておるか、そして、自分の信心の稽古に通うているのじゃない、という事を気付かせて貰ったら、ほんなら、信心の稽古はさせてもらえる。ほんなら、信心の稽古とは、どこに焦点を置くかと。いよいよ、神心を目指しての、信心でなからなければならない。神心を分らせて貰う。それが、いよいよ、深う、広うなっていくことを、願わせて貰うての稽古でなからなければならない。ね。そんなら、かわいいと愛しいは違う、ね。冷淡と冷たいは違う、ね。そこんにきの使い分けを、の、稽古。そこから、人が助かることの出来れる働きと、自分も、ね。神に向こうていく心が成長していく事の働きというものが、そのようなことの中から生まれてくる。そこから、あの人が、は、二人見るようになったと言う事のなるわけなんです。ね。そういう意味合いで、あの、第七十四節、かわいいと思う心が神心じゃと、こう仰る。その、神心を、いよいよ、高めていかなければならんと思うですね。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日